2−1.唯物論(ゆいぶつろん)か、観念論(かんねんろん)か

太郎さん:

唯物論の立場に立つか、観念論の立場にたつかという問題は、世界をどう見るか、そのいちばんの根本にかかわる問題なんだよ。

花ちゃん:

根本の問題は、わかったから、そのなんとか論ってどういう意味?

太郎さん:

エンゲルスさんが「フォイエルバッハ論」(1888年)で書いているのは、

 

「・・・哲学者たちは二つの大きな陣営に分かれていた。・・・精神の本源性を主張し・・・みとめた人びとは・・・観念論の陣営を形づくった。自然を本源的なものとみた他の人びとは、唯物論の種々の学派に属する」ということなんだ。

花ちゃん:

精神がおおもとって主張することを観念論で、自然がおおもとって主張することを唯物論ってことなの?

太郎さん:

 その通り!でも話は、そんなに単純じゃないっていうか、人間の考えることって、もっと、もっと複雑なんだ。そこのところに少し踏み込もうネ!
 だいたい世界にたいする見方には、大きく言って三つの流れがあるんだ。

花ちゃん:

エ〜ッ!二つじゃないの?

太郎さん:

唯物論は一つだけど、観念論には、主観的観念論と客観的観念論の二つの流れがあるんだよ。

花ちゃん:

主観と客観ね?

太郎さん:

唯物論は、僕たちがそのなかで生きている自然もそれから社会も、客観的に実在するものだと見る、そして、人間というもの、あるいはこの「自分」というものは、客観的に存在している自然の一部であり、社会の一部だと見る見方なんだよ。これは、おそらく、世界にたいする皆のごく普通の見方だと思うよ。それと、唯物論には、主観はないよ。主観的になるということは、唯物論の見方ではなくなるからね。

花ちゃん:

フ〜〜ン!客観的な見方が唯物論か!

太郎さん:

そう単純にはいかないよ。さっき言ったように客観的な見方の観念論もあるよ。それじゃ、二つの観念論を見てみようね。
 主観的観念論は、普通の見方をひねって考えて、「世界」というものは、客観的に存在しているかのように思われているが、実は、その「世界」なるものは、自分の頭のなかにあるものであって、自分の意識から独立した存在などは実在しないのだ、という見方なんだ。

花ちゃん:

「世界」が頭のなかにあるの?それって自分の「世界」ってこと?

太郎さん:

近いかもね!三つめの客観的観念論だけど、これは、世界も、自分の意識も、すべて現実の世界の外にある「絶対者」が生みだしたものだと見るんだ。この「絶対者」というのは、宗教でいう「神」に近いもので、世界の発展も、人間の発展も、すべて「絶対者」が生み出し、動かしているのだと説いた見方なんだ。

太郎さん:

もう一つ、「はにかみ屋の唯物論」というのがあって、不可知論(ふかちろん)と言われているんだけど、それは、客観世界が存在していることは認めながら、「われわれの思考」が「現実世界」を認識できるかどうかを疑う流派で、人間が認識できるのは、「現象」だけで、現象の背後にある「物自体」を認識することはできないという見方なんだ。でもこんな人、よく見かけるけどネ!?

花ちゃん:

え〜っ?唯物論って二つあるの?結局、最後は、この世界は、わからないってことなの????私の頭のなかがグチャグチャになったみたい!?!?

太郎さん:

「はにかみ屋の唯物論」は、唯物論のことだよ。ただ、「はにかみ屋」なだけなんだけどね。
でも、僕の頭のなかもグチャグチャになってきたけど、よくわからないということで、やっと二人の頭が一致したネ!!

花ちゃん:

なんだか変な一体感ね!?
これが「科学的社会主義」の「世界観」?

太郎さん:

違う!
 チョット、休憩して、頭を整理するためにクイズをしよう!(P34)
観念論者がどんなに複雑な論法をもってこようが、絶対にそれに負けないで、自分の立場をはっきりさせることができる三つのクイズがあるんだ。

花ちゃん:

頭がゴチャゴチャになる前に先に言ってよ。人が悪いわね!

太郎さん:

すまんすまん。話には順序があるからね。そのクイズを考えたのは、レーニンさんなんだよ。彼が、「唯物論と経験批判論」という本のなかで書いているんだ。それは、まず
Q1→「あなたは、人間が生まれる前に、地球があったことを認めますか?」
Q2→「あなたは、人間は脳の助けを借りて考えていると思うか?」
Q3→「あなたは、他人の存在を認めるか?」

花ちゃん:

アホくさ!人をバカにしているの?全部「YES」じゃないの。世の中の常識でしょ。

太郎さん:

まあ、怒らない、怒らない!あなたは、れっきとした「唯物論者」です。

花ちゃん:

でもなぜ、そんなに常識的なことを、レーニンさんは、当時の人に問いかけたの?

太郎さん:

それは、レーニンさんの答えのなかにあるよ!
A1→「世界は自分の頭のなかにだけあるという考えの人、あるいは意識こそが先にあって、それが世界を生み出したという考え方の人にとっては、人間の意識がなければ世界はないはずです。」観念論者のなかには「人間が生まれる前でも、恐竜の意識のなかに世界があった」という議論をもちだした人もいたようだけど、ここまで行ったらおしまいだよね。
A2→「脳の一部が損傷を受けただけでも、そこが重要だったら、人間はまともな思考ができなくなります。しかし、そのことを認めてしまったら、脳と言うのは物質ですから、"物質的なよりどころなしには、思考はない"ということを、いやおうなしに認めざるをえなくなります。」だからこのクイズも、観念論者の心臓をぐさりと刺す質問となるんだよね。
A3→「徹底した観念論者だったら、世界は自分の意識のなかにあるだけなのですから、自分以外の人間も、意識のなかの世界の一部分にすぎないわけで、客観的に存在しているとは、認められないはずです。」だから、このクイズもまた、観念論のいちばん痛いところをついた質問になるんだよね。

花ちゃん:

これでもう、観念論も終りね。これで、一件落着ね!

太郎さん:

まだ、まだ・・・!観念論は、いろんなところに自分のよりどころを求めようとするんだ。もうちょっと、観念論と付き合ってよ!僕たちも、知らず知らずのうちに、この観念論に陥っていることが多いからね。(P36)

花ちゃん:

私がルール、私が一番という人、よく見かけるもんね。これも観念論かな????

太郎さん:

エンゲルスさんの時代には、観念論の最後の逃げ場となったのは、生命と意識の問題だったんだ。いくら自然科学が発達しても、生命とか人間の意識とかは、唯物論の立場では解明できるものではない、物質的な原因と結果などの範囲をこえた、もっと複雑な、神秘的なものがそこにあるはずだ、これが、観念論のよりどころとされたものだったんだ。

花ちゃん:

今では生命誕生のメカニズムは解明されているわよね。

太郎さん:

そうだよ。でも当時は、まだ解明されていなかったんだ。でも、エンゲルスさんは「反デューリング論」(1878年)の本のなかで、「生命とは蛋白質の存在形態である」と書いているんだ。生命の唯物論的な解明の方向が、今日の自然科学によって完全に証明されたよね。

花ちゃん:

でも生命が蛋白質の存在形態ってなにか、冷たくて、ドライ過ぎない?

太郎さん:

人間の温かさや優しさの問題については、先で話そうよ。この、事実をしっかり、つかむことが、温かさや優しさにつながると思うからね。

花ちゃん:

わかったわ!次は、意識の問題だったわね。ここは、難問でしょ!

太郎さん:

人間が外の世界を見るというのは、まず感覚からはじまるんだけど、この感覚自体がたいへん複雑なものなんだ。目の前にあるなにかを感覚するといっても、眼、鼻、耳、下、皮膚など、さまざまな器官で、色、形、臭い、音、味、触覚などをそれぞれなりに確認して、それを脳のしかるべき部分で受け止め、さらに総合して、一つの物体の認識にまとめあげるだろ。

花ちゃん:

ほらほら、困ってきたわネ!

太郎さん:

だからサ〜〜ッ!ものを認識するというのは、ものすごく複雑な過程で、そこをつきとめるのには、気が遠くなるほどの研究と分析の積み上げが必要になるんだけど、現在の自然科学は、人間の感覚とか思考とかが、脳細胞のどういう物質的な働きによるものかという難問に、すでに意欲的な挑戦をおこない、相当な成果をあげてきているんだ。

花ちゃん:

確かに、いろんなテレビ番組でも脳の働きや、脳からの指令のメカニズムもどんどん解明されている様子を放映していたのを見たわ。でも、そのうち、悪用されそう!!

太郎さん:

以前は、神秘論の源の一つとされたこともある精神現象が、生命現象と同じように、やはり唯物論的なものの見方の大きな地盤に変わりつつある、ということが、はっきりと言えると思うんだ。エンゲルスさんは、百数十年前に自然科学の発展のなかに唯物論の確証を見たんだけど、現代に生きる僕たちは、そのことを、はるかに壮大な規模で目撃しているんだよ。(P43)

花ちゃん:

自然科学をエンゲルスさん以上に見ているんだったら、エンゲルスさんを越えて、もっと先を見わたさないといけないわね。
なんだか、チョット、頭のなかの霧が晴れてきて、光が差し込んできたみたい!
サーッ・・・次に進みましょ!!