2−2.弁証法(べんしょうほう)か、形而上学(けいじじょうがく)か

太郎さん:

この問題は、唯物論か観念論かに比べたら簡単だね!

花ちゃん:

どこが簡単なのよ。言葉からして聞いたことがないわ。

太郎さん:

どちらも世界のとらえ方を話す時に使われる言葉で、「形而上学」というのは、アリストテレス(紀元前384〜322年)以来の言葉で、たいへんわかりにくい言葉だよね。
 「弁証法」が、世界をありのままにとらえる、とらえ方であるのにたいして、「形而上学」というのは、その反対物、石頭式のとらえ方だと思ってもらえれば、わかりやすいよ。

花ちゃん:

答えがわかる前から、勝敗が決まっている言い方ね・・・!

太郎さん:

それじゃ、エンゲルスさんが「空想から科学へ」の本で説明している二つの違いを表にしてみたから、まず見てよう!
  弁証法的な見方 形而上的な見方
第一 ものごとを世界の全般的な連関のなかでとらえる。 ものごとを、個々ばらばらにとらえる。
第二 すべてを生成と消滅、運動と変化のなかでとらえる。 固定した、いちど与えられたらそれきり変わらないものとしてとらえる。
第三 固定的な境界線や「不動の対立」にとらわれない。反対物への転化も視野にいれる。 ものごとを、白は白、黒は黒という絶対的な対立のなかでとらえる。

花ちゃん:

第一と第二の比較は、思い当たる事や周囲にも、それぞれに当てはまる人がいると思うわ。私は、どちらかというと形而上学的な方かな?

太郎さん:

始めに「この問題は・・簡単だね」と言ったのは、身近な生活・仕事・人間関係のものの見方で、時によって、それぞれを使い分けていたりすることが、たくさんあることが、あらためて、わかるよね。

花ちゃん:

でも第三の比較は、よくわからないわ?

太郎さん:

これは要するに、自然と社会のなかでは、どんなに鋭く対立しているように見えるものでも、条件が変わったら、双方がお互いに軟化しあったりすることが起こりうる、そこをとらえるだけの柔軟性をもたなければならない、ということなんだ。
  エンゲルスさんは、「反デューリグ論」という本のなかで、「いまや自然科学は、もう、これ以上、弁証法的な総括をまぬがれないところまできている」と書いて、この第三の特徴が、弁証法的な自然観の核心をなすものとして、とくに強調しているんだよ。

花ちゃん:

「柔軟性をもつ」ね!気持ちのゆとりがない時には、「形而上学」的な見方になって、気持ちのゆとりがある時は、けっこう、「弁証法」的な見方ができていると思うわ!どちらが私の世界のとらえ方なのかしら?

太郎さん:

それは、花ちゃんだけではなくて、皆が感じたり、考えさせられたりしていることではないのかな!ゆとりがあれば、人にも自分にも優しくなれるもんね!このゆとりの問題は、「経済学」のところで、考えることにしようね!話をもどして、二つの比較の事例を見てみよう!
まず、レーニンさんが「物理学の危機を解決した例だよ!

花ちゃん:

なぜ、世界のとらえ方によって「物理学の危機」が解決できるの?

太郎さん:

物理学は、それまで、ニュートン力学など、ほぼ完成した体系を仕上げていて、これは不動のものだとされていたんだ。その根本に「質量保全の法則」、つまり、物質は消滅することも生まれることもありえない、という法則が、世界のゆるぎない基礎をなしていたんだ。
 ところが、物理学が原子の世界にメスをいれはじめると、不動だと思っていた、その法則がぐらついてきたんだ。
 フランスの女性科学者キュリーさん(1867〜1934年)が発見したラジウムの崩壊現象では、明らかに「物質」が崩壊し、「質量」が消滅するんだ。
 「物質が消滅した」といって観念論に救いの道を求めようとした研究者も次々と現われたんだ。
 そのとき、「物理学の危機」の本質を見抜いて、危機かららぬけだす道はここにある、ということを解明したのが、レーニンさんであり、その著作「唯物論とその経験批判論」だったんだ。
 人間の知識の発展というものは、自然の奥へ、さらに奥へとどこまでもすすんでゆくもので、その途中の段階の知識を絶対化してはいけない、そういう意味をこめて、レーニンさんは、「電子は、原子と同じように、くみつくすことのできないものである」という言葉を、この本のなかに書いたんだ。

花ちゃん:

フ〜ン!「・・・くみつくすことのできないものである」ね!あらためて、結論や結果を急ぐと、本質にせまれないだけじゃなくて、混乱してしまうということかな!ほかには、まだあるの?

太郎さん:

つぎは、現代の自然科学の壮大な発展の例だよ!

花ちゃん:

また、大きく出たわね!

太郎さん:

日本の物理学にはたいへん影響をおよぼしたんだ。
 原子の世界からさらにすすんで、素粒子の世界へ、そして、そこからさらにその奥にふみこんだ世界的に有名な物理学者の坂田昌一さん(1911〜1970年)は、エンゲルスさんやレーニンさんを早くから読んで、自然の弁証法的な性格をよく心得、弁証法的な自然の見方を身につけていた人だったんだ。坂田さんは、「20世紀初頭の"物理学の危機"について、活路をしめしたただ一人の人物がレーニンだった」「自分たちの研究は、エンゲルスやレーニンが説いた弁証法を指導的な方法論としてすすめてきた成果である」と、いつも話していたんだ。(P49)

花ちゃん:

確か、原子から素粒子にすすんで、素粒子を構成しているクォークという、より奥の粒子にまですすんでいるんでしょ。ということは20世紀初頭のように、新しい世界にぶつかったからといって、「物理学の危機」がさわがれるということは、もう二度と起こらなかった、ということなんでしょ!つまり、弁証法的な自然観というのが、すでに自然科学の常識になっているということなんでしょ!

太郎さん:

だよネ!!花ちゃん、どうしたの?

花ちゃん:

ちょっと素粒子にはうるさい方なのよ。エヘン!宇宙は、だいたい150億年ほど前に爆発的な形で膨張を開始したことになっているんだけど、その爆発直後の歴史をたどっていくと、クォークや素粒子などができあがってくる過程もわかると考えられているのよね。物質を奥深く探究するミクロの世界と宇宙的なマクロの世界とのあいだには、実に壮大な連関があるってことなのよね!

太郎さん:

そうだよ、この世界を見るには、唯物論的な見方と同時に、弁証法的な見方の必要性が、本当に壮大な規模で明らかになっているね。これが、僕たちの時代なんだよ!(P51)
 こんどは、政治の世界の弁証法を見てみようね!
 政治というのは、結構、あれこれの「固定観念」が生まれやすいものなんだ!

花ちゃん:

それじゃ、まず20世紀におけるソ連という存在をどう見るの?

太郎さん:

急にヘビーなテーマからだね!
 最初は、ともかく社会主義の国だという認識だったんだけれど、そのソ連が、1960年代に日本共産党にたいして、たいへん卑劣で野蛮な干渉の攻撃をしかけてきたんだ。そのソ連が、チェコスロバキアを侵略(1968年)し、アフガニスタンを侵略する(1979年)という事態を起こしたんだよ。
 ソ連の干渉や侵略の誤りの根深さがいよいよはっきりし、その誤りと国内の専制的な体制との関連もだんだんつかんでくる、こうして、ソ連という存在にたいする日本共産党の認識も発展していったんだ。だから、1991年にソ連が崩壊したとき、日本共産党は、ソ連はスターリン時代以後、社会主義にむかう軌道を根本的にふみはずし、対外的にも国内的にも社会主義とは無縁な「人間抑圧型」の社会に変質していた、という結論をだしたんだ。
 ところが、世界を見ると、ソ連が実際におかした悪事については批判をしても、社会主義をかかげてすすみだした国が、社会主義の反対物に変化したというところまで、認識をつきつめられない傾向が、相当広くあったんだよ。
 これは「社会主義」という、はじめにもった固定観念、いわば「白は白、黒は黒」式の固定観念にしばられて、世界的な現実をあるがままに見ることができない一例だと言える、とは思わないかい!

花ちゃん:

フーン、そうなんや!
 もっと身近なところで、無党派層の人たちをどう見るの?

太郎さん:

"無党派層"とういうのは、以前は政治に関心のない人たちの代表と見られていたんだ。それが90年代に無党派層の急激な増大という状況が起きたんだけど、これは、これまでの無党派層とは違って、いままで一定の政党を支持してきた人たちが、その政党のやり方に批判や不満をもって、その支持をやめる、という現象だったんだ。いま支持する政党はない、という人びとのなかでも、政治的無関心層ではなく、こういう人たちがむしろ主流になってきたんだ。

花ちゃん:

無党派層は、無関心層じゃないってこと?

太郎さん:

日本共産党は、新しい無党派層は、変化の向きはプラスだ、悪い政治の担い手を支持していた人たちが、その誤りに気付いて、支持を撤回したのだから、これは、積極的な変化の現れだという評価をし、この無党派層が正しい政治の方向を選んでくれるように、大いに努力しようという見方に立ったんだ。

花ちゃん:

無党派層は、無関心層という"固定観念"にとらわれなかった、ということなのよね!

太郎さん:

もし"固定観念"にとらわれていたら、90年代に、無党派層の人びととの対話や交流を前向きに発展させることはできなかっただろうと思うよ。(P53)

花ちゃん:

最近、日本共産党は、自衛隊を認めるというような記事を見たことがあるけど、憲法九条を守るということと矛盾するけど、この問題は、どう見るの?

太郎さん:

日本共産党第22回党大会(2000年)の決議案をめぐる討論のなかで、自衛隊にたいする態度が一つ焦点になったんだ。
 これは"白は白、黒は黒"という機械的な見方では解決できない問題なんだ。日本共産党は、憲法九条の完全実施、すなわち自衛隊の解散ということを、政治の真剣な目標としているんだ。しかし、現実にその目標にむかって国民とともに前進してゆこうとすると、そこにいたる過渡期には、どうしても、日本共産党が参加する民主的な政権と自衛隊が共存する時期が不可避になってくるんだ。
 だから、日本共産党が責任ある政党として、自衛隊の解消、常備軍のない日本を実現してゆこうとすると、自衛隊と共存するこの過渡期にどういう対応をするのか、この点を明確にせざるをえないんだ。
 そういう立場から、日本共産党は、その大会で、過渡期の問題にまでふみこんで、段階的な方策を明らかにしたんだ

花ちゃん:

いつものスッキリ、さわやかな感じじゃないわね!

太郎さん:

僕も以前は、憲法違反の自衛隊は断固反対って、言っていたんだ。けど、もし、日本共産党が、"白は白、黒は黒"式の考えに立って、そんな過渡期などありえないとか、どんな場合にも自衛隊との共存など認めないとかの態度をとったら、政党として、自衛隊解消論をとなえはするが、日本の政治を国民とともに現実に動かして、この政治目標を実現してゆく道筋は、示せないことになってしまう、それで、最近は、この自衛隊も弁証法的に見る必要性を感じているんだ。

花ちゃん:

そうよね!この自衛隊存続の問題は、まだまだ国民の考えが二分されているものね。

太郎さん:

日本共産党が、日常の政治活動のなかでぶつかるいろいろな問題についても、形而上学の石頭式の考え方を警戒し、弁証法的な考え方を練るということは、絶えず求められている問題なんだ!

花ちゃん:

なるほどね。「日本の政治を国民とともに現実に動かして」ゆこうとしたり、「無党派層」の人びとと力を合わせてゆこうとしたりする時、弁証法的な見方や考え方を練っておかないと、大同団結はできないわよね!

太郎さん:

それじゃ、次に、世界観の三つ目の問題にすすもうね!それは、社会と歴史をどうとらえるか、という史的唯物論(してきゆいぶつろん)の問題なんだ。

花ちゃん:

「史的(してき)」?「科学的社会主義」の言葉ってむつかしいのよね!「私的(してき)」だったら毎日、実感しているんだけどな!

太郎さん:

若いのに、オヤジギャグ!!
(ということで、またまた、聞き慣れない言葉が飛び出してきましたね!!史的が素敵なのか・・・アレッ。オヤジギャグの弁証法になってきました。さてさて、これから、花ちゃんと太郎さんは、大丈夫でしょうか!?)