(マルクスは資本論で資本主義の将来をどのように見たのか)
今回の中計見直しでの2008年度設備投資計画(連結)金額は、1,100億円という莫大な額になっています。この額は、経常利益予想550億円の2倍にあたります。
マルクスの「資本論」では、資本家が市場の需要に対して生産力を増大させるのではなく、「価値増殖の狂言者」として止めども無い利潤第一主義のもとに、労働者が創り出した「剰余価値」を労働者や社会にほとんど還元するのではなく「生産のために生産させ」る方向に資本家を駆り立てると、告発しています。
「資本家は、人格化された資本である限りにおいてのみ、一つの歴史的価値をもち、また、・・・歴史的存在権をもつ、その限りでのみ、彼自身の過渡的な必然性が、資本主義的生産様式の過渡的な必然性のうちに含まれる。しかし、その限りではまた、使用価値とその享受ではなく、交換価値とその増殖とが、彼の推進的動機である。価値増殖の狂言者として、彼は容赦なく人類を強制して、生産のために生産させ、それゆえ社会的生産諸力を発展させ、そしてまた各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態の唯一の現実的土台となりうる物質的生産諸条件を創造させる」{第1部(第22章 剰余価値の資本への転化)、下線は筆者} |
それでは、「生産のために生産させ」ることが、どのような問題を引き起こすのでしょうか。「資本論」では、「資本主義的生産様式」と「社会的生産諸関係」とのあいだに生じる「恒常的な矛盾」は、恐慌という姿で「資本主義的生産様式」のなかに現れてくると告発しています。
「資本主義的生産様式が、物質的生産力を発展させ、かつこの生産力に照応する世界市場をつくり出すための歴史的な手段であるとすれば、この資本主義的生産様式は同時に、その歴史的任務とこれに照応する社会的生産諸関係とのあいだの恒常的な矛盾なのである」{第3部(第15章 この法則の内的諸矛盾の展開)} |
マルクスは、恐慌の原因をどのように見るかについて、以下のようなことを書いています。
「すべての真の恐慌の究極の根拠は、依然としてつねに、資本主義的生産の衝動と対比しての、すなわち、社会の絶対的消費能力だけがその限界をなしているかのように生産諸力を発展させようとするその衝動と対比しての、大衆の貧困と消費制限とである」{第3部(第30章 貨幣資本と現実資本T)} |
「資本論」では、「生産諸力を発展させようとするその衝動」は「大衆の貧困と消費制限」によって規制されると書いています。この規制を無視して、生産力を増大させると恐慌になると告発しています。
このことは、現代の社会で起きている問題ともたいへん深く関わっています。
それは、米国に端を発しているサブプライムローン問題が、支払い能力が乏しい貧困層に無理やり資金を提供したり、生活資金の補填にしたりという「大衆の貧困と消費制限」を無理やり押し広げることにより、恐慌のマグマの増大を、かつて資本主義が経験した恐慌とは比べものにならないほど、拡大させてしまったことです。
もし、資本主義の正常な発展を考えるのならば、消費には限界があることを熟慮して生産設備投資と蓄積資本投資を考えないと、「資本主義的生産様式」の根底を覆すことになりかねない事態になることを、マルクスは新しい物質的土台ならびに新しい社会への展望と共に、先に引用した「資本論」第1部第22章の中で書いています。
今、世界中で、「資本主義の限界」を問われ、資本主義社会の指導者たちは、その答えを出せないでいます。空前の利益を上げているトヨタでさえ、対米輸出の削減・対米生産の減産を表明せざるを得なくなっています。
マルクスが書いている「大衆の貧困と消費制限」をこの資本主義社会は乗り越えられるのか、「より高度な社会形態の唯一の現実的土台」づくりを終えて、新しい社会へ進む大きな歴史的潮目を迎えるのか、今後の動向を注意深く見ていきましょう。
{詳細をお知りになりたい方は、「科学的社会主義を学ぶ:新日本出版社、著者、不破哲三」をご一読下さい。}